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パク・ジニョン

박진영J.Y. Park
俳優・女優歌手

JYPエンターテインメントを一代で築いた歌手・作曲家・プロデューサーである。1994年にソロ歌手として世に出て、god、Rain、Wonder Girls、2PM、TWICE、NiziUなどを手がけ、50代になった今も自ら新曲を出し続けている。

更新 2026-10-08/出典確認 2026-10-09

生い立ちとデビューまで

ニューヨークで出会った黒人音楽

1971年12月13日、ソウルの中谷洞で、姉が一人いる家庭の長男として生まれた。母親によれば、いたずら好きでやりたいことの多い子どもだったという。小学1年のとき父親の海外赴任が決まり、一家で約2年半ニューヨークに住んだ。近所の黒人の子どもたちと毎日のように踊って過ごし、英語とともにマイケル・ジャクソンの音楽に出会った。帰国後も成績は良いほうで、難関の大元外国語高校にも合格したが、見学して「監獄のようだ」と嫌がり、進学を取りやめた。窮屈な学校生活に息が詰まりそうになると、父親が車でクラブまで送って思い切り踊らせ、酒とたばこは禁じたうえで外で待ち、約束の時間に連れ帰ったという。そして延世大学の地質学科に進んだ。

不合格と修業の日々

大学在学中には「パク・ジニョンと新世代」というグループでアルバムを出しているが、ほとんど注目されずに終わった。その後はキム・ゴンモのバックダンサーを務め、パク・ミギョン、カン・ウォルレとの男女3人組「フリースタイル」でデビューを準備したこともあったが、本人いわく途中で「クビになった」。作曲家キム・ヒョンソクのもとでは約2年半学び、作曲の基礎を身につけた。今でもキム・ヒョンソクを師と仰いでいる。一方で、数々のオーディションでは外見を理由に落とされ続けた。SMのオーディションでは、イ・スマンから自作曲『날 떠나지마(僕を離れないで)』だけ売らないかと持ちかけられたが、きっぱり断ったという。

「날 떠나지마」でのソロデビュー

転機は、キム・ヒョンソクが関わる事務所のオーディションに合格したことだった。もとはバラードだった『날 떠나지마』をダンス曲に編曲し直し、1994年にソロ歌手としてデビューした。この曲は先に菓子のCMソングとして流れ、映像に出ていたのは新人時代のチョン・ウソンだった。そのため本人が初めて舞台に立ったとき、CMの印象とのギャップに驚いた視聴者もいたという。それでも透けた「ビニールパンツ」の衣装と腰を大きく使ったダンスはそれまでの歌謡界になく、男性の色気を正面から打ち出したステージとして強い衝撃を与えた。曲は1995年に入って音楽番組で初の1位を取り、1stアルバムは47万枚を売り上げた。

活動の歩み

90年代のスター歌手から制作者へ

1995年の2ndアルバムでは『청혼가(求婚歌)』で再び1位を取り、続く『엘리베이터(エレベーター)』はイ・ソラと共演したきわどいミュージックビデオで物議を醸した。1997年の『그녀는 예뻤다(彼女はきれいだった)』、翌年の『HONEY』などヒットを重ね、作詞・作曲も自分で手がけるシンガーソングライターとして地位を固めた。1997年には自分の制作会社「太映企画」を設立し、最初に送り出した歌手チンジュが『난 괜찮아(私は大丈夫)』でいきなりヒットした。1999年4月から2000年10月まで公益勤務要員として兵役に就いたが、昼は駐車違反の取り締まり、夜は作曲という生活で、月に100曲以上を書いたと語っている。この時期にプロデュースしたgodは国民的グループと呼ばれるほどの人気を得た。

JYP誕生と米国進出の挫折

2001年に会社名を現在のJYPエンターテインメントに改め、翌2002年にはそれまで稼いだ全財産約20億ウォンを投じて清潭洞に社屋を購入した。同年デビューさせたRainは2曲目で1位を取り、1999年から2002年にかけてはテレビ局の歌謡賞でプロデューサー賞を総なめにした。一方で2003年からは米国進出に力を入れ、現地での楽曲制作や支社設立に挑んだが、成果は乏しかった。2007年にはJYP初のガールズグループWonder Girlsを送り出し、『Tell Me』はガールズグループブームの起点と言われるほどのヒットになった。続いて2PMと2AMも成功させた。しかし人気絶頂のWonder Girlsを米国活動に向かわせ、国内活動が止まりメンバーも入れ替わったことには、今も批判がある。

オーディション番組と新世代グループ

2010年代はテレビでも存在感を増し、オーディション番組『K팝 스타(K-POPスター)』で2011年から2017年まで審査員を務め、2015年にはTWICEのメンバーを選ぶ『SIXTEEN』を一人で審査した。2019年にはソニーミュージックと組んで『Nizi Project』を始め、日本語を学んで現地参加者と向き合った。番組から生まれたNiziUは日本で大きな成功を収めた。同年にはITZY『ICY』とTWICE『Feel Special』も作った。歌手としても2015年にジェシーとの『어머님이 누구니』を1位に送り込み、2024年9月にはデビュー30周年を記念したKBSの特番『딴따라 JYP』が放送され、2026年7月にはWATERBOMBの公式テーマ曲『WET』を発表した。2025年9月には大統領直属の大衆文化交流委員会の共同委員長に指名され、10月に就任した。

エピソード

「自分のいない会社」を目指す

インタビューでは独特の経営観を何度も語っている。社内での正式な呼び名は社長でも代表でもなく「パク・ジニョンさん」だといい、偉くなって人を笑わせたり泣かせたりする力が鈍ることが一番怖いと述べた。Wonder Girlsの米国活動が失敗した後は、何でも自分が決めるやり方を改め、A&Rチームの審査を通った曲だけを出す仕組みに変えた。最初は納得のいかないミュージックビデオが出てきて戸惑ったが、外部作曲家を起用し社内の作曲家も育て、3年ほどかけて仕組みが回り始めたという。スティーブ・ジョブズの死後にアップルの株価が揺れたのを見て、自分がいなくなっても揺るがない会社を作ろうと決めたとも語っている。歌手としての目標は、60歳のときに一番うまく歌い踊れる姿を見せることだという。

日本での人気と愛すべき失敗

『Nizi Project』で日本の参加者にかけた言葉は日本の視聴者にも響いた。「真実・誠実・謙虚」を大切にするよう説いた言葉などが話題になり、日本のファンからは「餅ゴリ」というあだ名で親しまれている。明治安田生命の「理想の上司」調査では5位に入り、指導力が評価された。一方でお茶目な場面も多い。2002年の授賞式でソン・デグァンに頼まれ、控室でその場で振り付けを作ってあげた。2023年11月にはSNSで流行していたスリックバックを踊った動画を公開したが、本来の動きとかけ離れていたため、ネットで盛大にからかわれ、本人も「消したいが、今さら消すと格好がつかない」と苦笑した。同じ月の青龍映画賞の祝賀ステージでは喉の不調で歌が崩れ、後日出演した番組では、当日は朝から仕事が続き喉が出なかったと明かし、「あのときは体調が悪かったと伝えてほしい」と冗談交じりに頼んでいる。

結婚と信仰をめぐる騒動

私生活では1999年に最初の結婚をしたが、2009年に離婚した。2013年に9歳年下の一般人女性と再婚し、2019年と2020年に娘が生まれている。信仰をめぐっては長く議論が続いている。2018年5月、ある宗教団体の伝道集会を主導していたとする報道が出たが、本人は友人たちと会場を借りて聖書の勉強をしているだけで、どの組織にも属していないと反論した。2020年にはバラエティ番組でも同じ趣旨の説明を繰り返している。2026年9月には、自らが率いる宗教集会「첫열매들(初穂たち)」のYouTubeチャンネルで「確かな根本と系譜のある教会」だと説明する動画を公開し、議論が再び起きた。大韓イエス教長老会(統合)はこの集まりについて教団として研究を進めており、2027年の総会で結果を報告する予定と報じられている。

プロフィール

生年月日
1971年12月13日[1]
出生地
ソウル特別市[1]
国籍
韓国[1]
職業
俳優 / 歌手[1]

作品

年は作品の公開日・放送開始日です。本人の参加時期を示すものではありません。

  1. 2017年박진영의 파티피플出演[2]

出典

リンク先の著作権は各発行元に帰属します。本文は転載せず、確認した事実をもとに書き起こしています。

  1. パク・ジニョン — 人物の構造化データWikidata/構造化出典/確認日 2026-10-08
  2. 박진영의 파티피플 — 出演者・公開日の構造化データWikidata/構造化出典/確認日 2026-10-08