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イム・グォンテク

임권택Im Kwon-taek
俳優・女優

全羅南道長城出身の映画監督である。1960年代から100本を超える作品を撮り、『風の丘を越えて/西便制』『酔画仙』などで韓国の伝統と庶民の情念を描いて、韓国映画を代表する巨匠と呼ばれる。

更新 2026-10-09/出典確認 2026-10-09

生い立ちとデビューまで

左翼の家と家出

イム・グォンテクは全羅南道長城郡に生まれた。家は本来裕福だったが、父が左翼運動に関わったことで一家は「パルチザンの家」という烙印を押され、暮らしは急速に傾いた。光州の学校を中退した彼は十代の終わりに家を出て釜山へ向かい、港の荷運びや米軍の軍靴の売買で食いつないだ。この軍靴商売で知り合った人々が戦後ソウルで映画製作を始めたことが、映画界へ入る糸口になった。

雑用係から監督へ

最初の仕事は、チョン・チャンファ監督の『薔花紅蓮伝』(1956年)の現場での使い走りだった。小道具や照明の助手を経て演出部に入り、チョン監督のもとで数年間、現場で演出を学んだ。映画学校に通った経験はなかったが、昼夜を問わず働く彼をチョン監督は信頼し、撮影のたびに意見を求めるほどだったという。1962年、『豆満江よさらば』で監督デビューを果たした。

活動の歩み

量産時代から作家へ

デビュー後の十数年は、国産映画を一定数撮らなければ外国映画を輸入できないという当時の制度のもと、反共映画や活劇を年に何本も撮る日々だった。父の経歴による連座制の不安から、体制に従う題材を選んだとも分析されている。本人はこの時期の作品を今も認めたがらず、脚本も自分のものではなかったと語る。1980年代に入ると『シバジ』『キルソドム』などで韓国人の歴史的な傷と女性の受難を正面から描き、国際映画祭でも名前が知られるようになった。

西便制からカンヌへ

1993年の『風の丘を越えて/西便制』はパンソリに生きる旅芸人一家の物語で、韓国映画として初めてソウルで観客100万人を超える社会現象となった。2000年の『春香伝』でカンヌ国際映画祭のコンペティションに進み、2002年には朝鮮後期の画家チャン・スンオプを描いた『酔画仙』で、韓国人として初めてカンヌの監督賞を受けた。2005年にはベルリン国際映画祭で名誉金熊賞を受賞。100本目の『千年鶴』を経て、2014年の『化粧』が102本目の監督作となった。

エピソード

自作を忘れた巨匠

多作ぶりを物語る笑い話がある。テレビで古い映画を見ていて「こんなつまらない映画を誰が撮ったのか」とぼやいたところ、エンドクレジットに自分の名前が出てきたというのである。半ば冗談だが、初期作品への複雑な思いがにじむ逸話として知られる。妻は女優出身のチェ・リョンで、1971年の時代活劇『妖剣』に彼女を起用したことが出会いだった。『化粧』の製作過程は、ドキュメンタリー『百二番目の雲』(原題 백두 번째 구름)に記録された。

他人の映画は見ない

影響を受けないよう他の監督の映画は見ないようにしている、とインタビューで語ったこともある。正規の映画教育を受けず、現場で数多く撮り、失敗を重ねながら自分の演出を身につけたという自負の裏返しでもある。近年は量産期の作品を研究者が再評価する動きもあるが、本人はそれをあまり歓迎していないという。監督と女優の恋愛が白い目で見られた時代で、チェ・リョンとの交際は人目を避けて続けられ、8年後の1979年にようやく結婚にこぎつけた。釜山の東西大学には、その名を冠した映画博物館も設けられている。

プロフィール

生年月日
1936年5月2日[1]
出生地
長城郡[1]
国籍
韓国[1]
職業
俳優・女優[1]

作品

年は作品の公開日・放送開始日です。本人の参加時期を示すものではありません。

  1. 2017年백두 번째 구름出演[2]

出典

リンク先の著作権は各発行元に帰属します。本文は転載せず、確認した事実をもとに書き起こしています。

  1. イム・グォンテク — 人物の構造化データWikidata/構造化出典/確認日 2026-10-09
  2. 백두 번째 구름 — 出演者・公開日の構造化データWikidata/構造化出典/確認日 2026-10-09